ヨハン早稲田キリスト教会の携帯サイトができました

ヨハン早稲田キリスト教会の携帯サイト・ヨハンモバイルが、(とりあえず)できました。
まだ「作成中」のところもありますが、大まかな体裁は整ったかなと思います。
ヨハン早稲田キリスト教会携帯サイト・ヨハンモバイル⇒【外部リンク】
現在、フォトのページの携帯サイト化が進行中(予定?)です。
以上ご報告でした。
にほんブログ村⇒【外部リンク】
[ ヨハン早稲田キリスト教会の紹介 ] 10/07/20 (火) 02:20 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京
神に服従し祝福を受けよう
新共同訳聖書
日本聖書協会
ヤコブの手紙4章7〜10節
だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。
悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
いろんな思いがあって、今日はこの箇所を引用しました。
ヤコブの手紙は、比較的「きつい」御言葉が多いことで知られていますが、この箇所もそう見えます。けれど、御言葉はどこの箇所も、蜜のように甘く、また求めたくなるようなものでもあります。
ここではまず、神様に服従することを聖書は要求しています。
具体的にはどうしたらよいでしょうか?
単純に言えば、聖書の書いてある通りにすることでしょう。
しかし、それはかなり難しい要求になります。
使徒パウロでさえ、何度も聖書の手紙の中で、自ら嘆いています。
しかし、
「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることは」ない,、とあります(
ローマの信徒への手紙8章1節)。
そうです、クリスチャンになること、すなわち、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として受け入れるなら、罪から解放されると、聖書は約束しています。そして、それは事実です。
ヤコブの手紙に戻りますが、同時に、「悪魔に反抗しなさい」とあります。
これまた、なかなか人間的には難しいものです。
聖書を読むと、その度に自分の罪性を指摘されます。
チクチクささるような御言葉もあります。
けれど、罪を告白して許しを願うなら、許されるのがキリスト教の神様の寛大なところです(この辺はまた機会があれば書きます。)。
でも、このチクチクを感じた時に、すぐに神様に服従し、悪魔に反抗するとき、悪魔は逃げていくというのです。
人間生身で悪魔と戦っては負けてしまい、罪を犯したり、妥協したりしてしまいますが、神様に近づくことにより、勝利することができます。
神様に近づくとはどういうことでしょうか?
自分の弱さを素直に認めて、罪を神様の前に告白するだけでよいのです。信仰義認です。
私自身、いろいろとこれまで犯した罪を祈りを通して告白し、神様に赦しを願ってきました。あとは、赦されたという確信が与えられるようねがうことでしょうか。そうすれば罪から自由になれます。
そして、「主の前にへりくだりなさい」とあります。そうすれば、「高めてくださいます。」とあります。
謙虚さ、純粋な信仰、服従、悔い改め・・・。
これらはみな、キリスト教信仰の基本ですが、そうすれば、高めてくださる。もちろん、主がいつ、どのような形で高めてくださるのかはわかりませんが、少なくとも天の国で高めてくださること、また、いつか、生きている間にも、よい証をさせてくださることを信じて信仰生活を送りたいものです。
聖書は不思議な本です。
叱られたり、励まされたり、慰められたり・・・。
直接だれかと対話をしているような感覚になります。
これは人格的な神様との対話だからだと思います。
私は本を読むのが非常に苦手なのですが、聖書だけは読みます。もっと読まないと・・・とは思っていますが。(汗)
私はここ(ブログ)で、いろいろつぶやいていますが(twitterではもっとつぶやいているかもしれませんが(笑))、
ここで、聖書について書いているのも、自分を律するためでもあります。
聖書を継続して読むためでもありますが、やはり自分の心の中で反復し、黙想し、主、神様が私に何を望んでおられるのかを知りたいという気持ちでブログを書いています。
足りないものですが、祈りの応援をよろしくお願いします。
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 会長日記・信仰編 ] 10/06/26 (土) 03:48 コメント(2)
[ 全体に公開 ]
東京
悔い改めへの招き
新共同訳聖書
日本聖書協会
エレミヤ書3章25節〜4章2節
我々は恥の中に横たわり
辱めに覆われています。我々は主なる神に罪を犯しました。我々も、先祖も
若いときから今日に至るまで
主なる神の御声に聞き従いませんでした。」
「立ち帰れ、イスラエルよ」と
主は言われる。「わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。」
もし、あなたが真実と公平と正義をもって
「主は生きておられる」と誓うなら
諸国の民は、あなたを通して祝福を受け
あなたを誇りとする。
イスラエルの人々は罪を犯し、神様から離れてしまいましたが、
悔い改めのチャンスを与えられました。
よく考えてみれば、イスラエルは何度も何度も、
神様から離れ、ほかの偶像を拝んだりしてきました。
そのたびに預言者、指導者が現れ、警告を出しました。
その時に悔い改めて、
「我々は主なる神に罪を犯しました。」と、
告白することができれば、主は寛大にも許し続けてくださいました。
このとき、「我々も、先祖も」とあります。
私たちは先祖の罪をも悔い改めなくてはなりません。
これは聖書的なことです。
自分の家系が犯してきた罪、
何かすらわからないかもしれませんが、
じっくり黙想する中で思い浮かぶ罪を、
悔い改めてみましょう。
もちろん自分自身の罪についても・・・。
そのとき、「あなたを誇りとする」と言われたように、
主は私たちを誇りとしてくださいます。
悔い改めるときに躊躇があってはならないのかもしれません。
「これは自分のせいではないのでは?」
とか、
「これはしかたがなかったんだ」
と言い訳をしては、神様は喜ばれません。
私自身、たくさん思いつくことなのですが、
神様はすべてお見通しです。
心に手を置き、静かになって自分の罪性を見てみれば、
悔い改めることの必要性を感じざるを得ません。
「悔い改める」ことは「悔いる」だけではありません。
「改める」ことも必要です。
それには人間的な努力や意思、決断も必要かもしれませんが、
主からの恵みがなくてはなりません。
主に悔い改めの祈りをささげるときに、
恵みも同時に求めましょう。
もっと神様に喜ばれる者にならせてください、と。
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 純粋に御言葉 ] 10/06/20 (日) 03:12 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京
私を喜ばれる主
新共同訳聖書
日本聖書協会
ゼファニヤ書3章17節
お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。
力がないとき、自信がないとき、
励ましてくださるのが聖書の神様です。
しかも、わたしの「ただ中」におられ、
勝利を与えられるお方、
愛し、そして愛によって新しい者へと変えてくださる方。
そして、私を喜んでくださる方。
この方ゆえにわたしも喜びます。
自信がないときに読むと元気になれる、それが聖書です。
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 純粋に御言葉 ] 10/06/12 (土) 04:20 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京
新らしい首相、内閣のために
内閣が新たに組織されましたね。
菅首相は、61人目の首相なんだそうです。
個人的にはいろんな思いがあって、
(詳しくは書きませんが)
微妙な気持ちもあるのですが、
新しい首相、内閣の大臣たちのために祈りたいと思います。
新共同訳聖書
日本聖書協会
テモテへの手紙一2章1〜5節
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。
王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。
これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。
以前、「救われる者・万人の救い」というタイトルで書きましたが、
(【リンク】)
クリスチャンは内部で争ったり、批判したり、ねたんだりしている場合ではなく、ノンクリスチャンのために、そして、政治家たちのためにも、もっと祈らなければならないのではないかと思いました。
日本の政治・経済、文化、芸能、科学技術・・・
すべての分野で、早く神様が喜ばれる国になってほしいです。
そのためにできることを、コツコツやっていくしかないですね。
まずは祈りから・・・。
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 純粋に御言葉 ] 10/06/09 (水) 01:05 コメント(2)
[ 全体に公開 ]
東京
信仰の始まり
新共同訳聖書
日本聖書協会
ローマの信徒への手紙10章14〜17節
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
先日の続きの箇所です。
聖書の神様は、「万人の救い」を願っておられます。
しかし、すべての人が救われるためにはどうしたらよいのでしょうか?
神様ならなんでも可能なお方。
だから、無理やりに信じさせることも可能かもしれません。
しかし、わたしたち一人ひとりの人格を尊重され、
良心に働きかけてくださり、信仰を与えてくださいます。
その際に、ほかのクリスチャンを用いられます。
ある人は牧師から、ある人はクリスチャンから、
ある人はクリスチャンが書いた小説から・・・。
いろいろなパターンがありますが、結局は先に救われた者、
クリスチャンから信じるように勧められて、信じるよう、信仰が与えられるわけです。
ですから、クリスチャンは伝道をしなければなりません。
でないと、神様の御国を拡張させるという、主の至上命令を果たせなくなります。
救いの御言葉といっても、難しいことではありません。
イエス・キリストの十字架と復活を伝えればよいのです。
伝道は神様のご命令であるだけでなく、祝福の源でもあります。
しかし、何から始めていいのかわからないというのが、クリスチャンについて回る疑問でしょうか。
しかし、パウロのように、愚直に、信仰を述べ伝えることが模範解答なのかもしれません。
彼は数々の迫害(身内からの迫害、伝道地での迫害、その他さまざま・・・)を乗り越えて伝道しました。
そして、確信を持って牢屋につながれても御言葉を弟子たち(テモテら)に託しました。そして、恥とは思っていない、と。
さて、信仰とは何でしょう?
新共同訳聖書
日本聖書協会
ヘブライ人への手紙11章1節
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
望んでいる事柄とは、イエス・キリストの十字架によって罪が購われ、
彼の復活によって、自分たちも復活する希望を持つこと。
そして、見えないこれらの事柄を事実として「確認」していくことでしょう。
イエス様の弟子のトマスは、十二使徒のひとりでしたが、
イエス様の復活を最初は見ていませんでした。
そのため、彼は主の復活を信じませんでした。
後日、彼の前にイエス様が現れます。それを見て、
トマスは信じました。
しかし、「見ないで信じる者は幸いだ」と言われてしまいます。
イエスキリストの十字架は信じられても復活が信じられないという人をこれまで何人も出会ってきましたが、彼らの特徴は、
1)イエス様の人性は認めても神性を認められないから
2)復活したイエス様を見られないから
3)そもそも聖書を信じられないから
これらの理由が多いように感じます。
このうちの2)に対しては、上述の御言葉がぴったりかもしれません。
信仰は見えないことを見ないで信じること、です。
たとえば、私たちは、よっぽどのトラウマがない限り、
椅子に座るとき、画鋲がないか?とか、
確認して座ったりしないですよね。
テレビでサッカーを観戦していても、
ボールが飛んでこないことが分かっているからテレビに「釘づけ」になれるわけです。
これらは一種の信仰に似たものです。
当たり前だと信頼しきっていれば、疑う余地なく行動に移せます。
イエスキリストを信じるのも、似たところがあるかもしれません。
聖書を信頼し、その御言葉が真実かどうか、
一度確かめてあれば、あとは自然と受け入れられるものではないでしょうか。
あとは各個人の価値観や過去の経歴ももちろん影響するでしょうが。
まだイエス様を受け入れていない方は、お近くの福音的なキリスト教会まで行ってみてください。
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 純粋に御言葉 ] 10/06/04 (金) 23:24 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京
救われる者・万人の救い
新共同訳聖書
日本聖書協会
ローマの信徒への手紙10章9〜13節
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
新共同訳聖書
日本聖書協会
エゼキエル書33章11節
彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
----------
神様はすべての人々を救いたいと願っておられます。
ではどうしたらよいのか・・・?
それは、前出の御言葉のように、主を告白することです。
天国に行くのは難しい修行をしなくてはならないわけでもなく、
たくさんのお金を払わなければならないわけでもなく、
血統、家柄がよくないといけないわけでもなく、
ただ、信じればよいのです。
なんという恵みでしょうか。
クリスチャンは、ただで買い取られた身として、ただでこの恵みを伝えなければならないですね。
(たぶん次回に続く・・・)
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 純粋に御言葉 ] 10/05/31 (月) 23:13 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京
誕生日プレゼント

今日は、私の誕生日(今週末です)のお祝いを、ヨハン早稲田キリスト教会の同じ青年会のグループの方々にしていただきました。
感謝いたします。
写真はプレゼントのなかの一つで、クッキーですね。
乳成分が入ってなくて、乳糖不耐症の私にも食べられるものです。感謝。
また、ケーキ
も、姉妹がわざわざ豆乳を使って手作りをしてくださいました。感激。
ほかにもノートからハンカチ、ネクタイピン、靴下、シャツ、ママレードなどたくさんいただきました。
そして添えられた温かいメッセージカード。うれしいですね。
もっと謙遜に、主に喜ばれる者に成長したいです。
え?何歳になったかって?
それは内緒で。(笑)
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 番外編(リトリート) ] 10/05/30 (日) 17:50 コメント(2)
[ 全体に公開 ]
東京
個人的な証
ヨハン早稲田キリスト教会の証のページに掲載された、
私の証の文章をご紹介したいと思います。
=======================================
福音化学者になりたい
両親、そして兄もクリスチャンの家庭育った私は、教会学校で聖書を学ぶ中、イエス様のことを自然と神様であると信じていました。ですが、反抗期の中学1年生のころ、些細なことをきっかけに、私は両親と兄に暴力をふるって家出をして以来、教会にも行かなくなってしまいました。
学校の成績も良かったため高慢になった私でしたが、大学受験に失敗し、浪人生活をすることを余儀なくされ、「神様なんていない」とすら思うようになり、完全に信仰をなくしていました。むしろ、勉強をたくさんし、科学を通して神様の存在を否定しようと理系に進むことに決めました
私が大学一年生の時、同じ水泳の授業を履修していたクリスチャンの先輩に声をかけられ、「飯一緒に食わへん?」と誘われました。食事の前にその兄弟がこう言いました。「俺、クリスチャンなんや。やで食べる前に祈るね。」と。そして、彼は突然祈り始めました。この先輩との出会いが引き金となり、昔聞いた聖書の内容が懐かしく思い出され、また聖書の話を聞いてみたいと思うようになりました。
8月に実家に帰った時に、埃をかぶった昔使っていた聖書を取り出して読んでみることにしました。ヘブライ人への手紙という聖書の書簡をなんとなく開いて読んでいた時、私はこれまで行ってきた罪、過ちに気付かされるようになりました。ヘブライ人への手紙4章12節、13節にはこう書かれていました。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」
私はこの個所を読んだところで聖書を読む手を止めました。「自分は罪びとだ。もし、聖書の神様が存在するとしたら、自分はどうなるのだろう?」と考え直し、9月に東京に戻って来てからは、ヨハン早稲田キリスト教会に行くことにしました。
すると、牧師先生のメッセージで、ちょうど私の心に刺さった聖書の個所とその続きの部分についてのメッセージを聞くことができました。私が罪びとであることは間違いない。その私の身代わりにイエス様が罪を負い、十字架にかかって死なれたことを悟り涙が溢れました。
先ほどの聖書の個所の続きの16節にはこのようにありました。「だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」この御言葉をもって、私はイエス様と出会い、信じ受け入れ、クリスチャンとしての人生を再び歩もうと決心しました。
それから変わったことがたくさんあります。まず、両親との和解です。私が家出をしてから数年間、わずか3回ほどしか口を利かなくなっていた父に、「教会に行き始めました。今までごめんなさい」と謝ることができました。それ以来、気軽になんでも相談できる親子関係になり、今では毎日のようにメールやチャットでコミュニケーションをするまでになっています。
次に大学生活も変わりました。正直、大学に入学してからは、面白いと思えることが少なく、授業も退屈に感じ始め、ビジョンのない生活をしていました。友人関係もあまり持とうとしていませんでした。サークルにも入っていましたが、行かなくなっていました。しかし、9月以降は勉強することもほかの学生と話をすることも楽しいと感じるようになり、旧友とも仲直りし、またクラスメートとのコミュニケーションもとれるようになり、性格も随分と明るくなりました。
事故のために何度も入院し、休学を余儀なくされたこともありましたが、主の恵みと教会の先生方や兄弟姉妹の励ましと祈りに支えられて、大学院修士課程にも復帰することができました。
更に、博士課程への進学を直前に控えた頃、研究テーマを祈っていたところ、インスピレーションが与えられ、英文の速報論文に投稿することができました。ただ恵みによって進学することができたことを主に感謝します。
研究者として、化学を通して主なる神様を伝える「福音化学者」になりたいというVisionに向けて、研究生活に励みたいと思っています。
このように、私はイエス様との出会いを通して人生が最善の方向へと導かれました。たくさんの方がイエス様と出会って豊かな人生を送って欲しいと切に祈ります。全ての栄光を主に帰し、これで私の証を終わります。ありがとうございました。
引用元:ヨハン早稲田キリスト教会 MyStoryのページ↓
【外部リンク】
==================================
もっと詳しい証の原稿(A4で8枚!!)もありますが、公開版はこれくらいで(笑)。
昨日、伝道師先生と大学でお話をする機会がありました。
私のようなものですが、証がたくさんあるから、もっと用いていいのでは?という話でしたので、早速ブログにて公開です(笑)。
聖書からの引用:
新共同訳聖書
日本聖書協会
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 証 ] 10/05/29 (土) 18:50 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京
罪から立ち返る者は生きる(エゼキエル書から)
新共同訳聖書
日本聖書協会
エゼキエル書18章23節
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
(中略)
新共同訳聖書
日本聖書協会
エゼキエル書18章30〜32節
それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。
お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。
わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
======
神様はいつも私たちが帰ってくること(罪を悔い改めること)を待っておられます。
「新しい心と新しい霊を造り出せ」とあります。
瞬間瞬間、聖霊様による満たしをうける必要があります。
それは祈りによって。
どんな罪を犯しても(犯さないほうがいいのですが)、
主は立ち返るものを拒みません。
新約聖書のルカによる福音書15章11〜32節の「放蕩息子のたとえ」にも、この神様の愛は表現されていますね。
いつでも立ち返る事ができる、素直な子供のような心を持ちたいものです。
にほんブログ村→【外部リンク】
[ 純粋に御言葉 ] 10/05/29 (土) 17:50 コメント(0)
[ 全体に公開 ]
東京



会長(熱血君)
プロフィール
